彼女は今日、遠くへ行く。
僕の知らない、遠い所へ行く。
命を狙われていた彼女を助けた僕は、今日まで彼女を保護するという契約を交わしていた。それは延命治療のようなもので、遺される僕の都合を彼女に押し付けたことに過ぎなかった。だから彼女は最初、僕にとても警戒していた。
見ず知らずの彼女は、僕の家に来たばかりの頃、部屋の隅でうずくまっていることが多かった。こちらの出方を伺うような目で僕を見て、一言も発さなかった。ご飯も頑として食べようとしなかったが、食事を目の前に空腹を耐えることのできる生物なんているのだろうか。僕が、彼女の分のご飯を残したままシャワーを浴びて浴室から出ると、皿は綺麗になっていた。そして何日か経つと、一緒にご飯を食べるようになった。時々喋るようになった。甘えてくるようになった。そうして彼女は、心を開き始めようとしていた。
そんな時に訪れた、一本の電話。
「明日、彼女を引き取りに行きます」
それが、昨日のことだった。
彼女との最後の朝。凪いだ海に沈む夕日を、たった二人、砂浜で見つめていたような一カ月のことが、走馬灯のように僕の心を駆け巡った。玄関で待つ彼女は、背筋を伸ばし、ただ前を見据えている。これから訪れる未来のことを、ただ冷静に、見据えている。
彼女との別れまで、あと一分。
背後から声をかけると彼女は振り返り、大きく澄んだ瞳で僕を見つめた。僕は隣に腰を掛け、彼女の頭を撫でながら言った。
「ごめんね、引き取れなくて」
彼女は、努めて気丈に言う。
『いいわ。どうせないはずの命よ』
この先に何が待っているのか、彼女はおそらく知らない。しかし彼女は勘がいいから、すぐにわかってしまうだろう。自分の運命を。自分の未来を。あるいは、もう気づいているのかもしれない。そうだとしたら、この小さな背中に、どれほどの恐怖を抱えているのだろうか。僕には到底、計り知れない。だから、せめて、少しだけでも気持ちが和らぐように、と僕は、彼女を抱き寄せた。彼女が慌てる。
『待って、そんなことをしたら君は……』
「いいよ。少しでも君の心に寄り添えることができるなら、それでいい」
彼女は逡巡した後、僕に身を預けた。その瞬間僕は、世界の誰よりも幸せだった。
外で、車の止まる音がした。
別れの時が、やってきた。
彼女と見つめ合い、彼女の頭を撫でる。
彼女は「にゃあ」と、最初とは見違えるほど強く鳴いた。
僕はそれを聞いて、微笑んだ。
インターホンがマンションの一室に響いた。ドアを開けて、彼女を引き渡す。
「ありがとう。さようなら」
彼女はもう一度、「にゃあ」と強く鳴いて、ドアの向こうへ消えていった。
両手には、まだ彼女の温もりが残っていた。
猫を引き取った猫アレルギーの話。
僕の知らない、遠い所へ行く。
命を狙われていた彼女を助けた僕は、今日まで彼女を保護するという契約を交わしていた。それは延命治療のようなもので、遺される僕の都合を彼女に押し付けたことに過ぎなかった。だから彼女は最初、僕にとても警戒していた。
見ず知らずの彼女は、僕の家に来たばかりの頃、部屋の隅でうずくまっていることが多かった。こちらの出方を伺うような目で僕を見て、一言も発さなかった。ご飯も頑として食べようとしなかったが、食事を目の前に空腹を耐えることのできる生物なんているのだろうか。僕が、彼女の分のご飯を残したままシャワーを浴びて浴室から出ると、皿は綺麗になっていた。そして何日か経つと、一緒にご飯を食べるようになった。時々喋るようになった。甘えてくるようになった。そうして彼女は、心を開き始めようとしていた。
そんな時に訪れた、一本の電話。
「明日、彼女を引き取りに行きます」
それが、昨日のことだった。
彼女との最後の朝。凪いだ海に沈む夕日を、たった二人、砂浜で見つめていたような一カ月のことが、走馬灯のように僕の心を駆け巡った。玄関で待つ彼女は、背筋を伸ばし、ただ前を見据えている。これから訪れる未来のことを、ただ冷静に、見据えている。
彼女との別れまで、あと一分。
背後から声をかけると彼女は振り返り、大きく澄んだ瞳で僕を見つめた。僕は隣に腰を掛け、彼女の頭を撫でながら言った。
「ごめんね、引き取れなくて」
彼女は、努めて気丈に言う。
『いいわ。どうせないはずの命よ』
この先に何が待っているのか、彼女はおそらく知らない。しかし彼女は勘がいいから、すぐにわかってしまうだろう。自分の運命を。自分の未来を。あるいは、もう気づいているのかもしれない。そうだとしたら、この小さな背中に、どれほどの恐怖を抱えているのだろうか。僕には到底、計り知れない。だから、せめて、少しだけでも気持ちが和らぐように、と僕は、彼女を抱き寄せた。彼女が慌てる。
『待って、そんなことをしたら君は……』
「いいよ。少しでも君の心に寄り添えることができるなら、それでいい」
彼女は逡巡した後、僕に身を預けた。その瞬間僕は、世界の誰よりも幸せだった。
外で、車の止まる音がした。
別れの時が、やってきた。
彼女と見つめ合い、彼女の頭を撫でる。
彼女は「にゃあ」と、最初とは見違えるほど強く鳴いた。
僕はそれを聞いて、微笑んだ。
インターホンがマンションの一室に響いた。ドアを開けて、彼女を引き渡す。
「ありがとう。さようなら」
彼女はもう一度、「にゃあ」と強く鳴いて、ドアの向こうへ消えていった。
両手には、まだ彼女の温もりが残っていた。
猫を引き取った猫アレルギーの話。
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