「昨日、海に行った話しようか?」
太陽は、斜陽が差し込む部屋で俄かにそう切り出した。大きな瞳を爛然と輝かせ、満ち足りた表情でこちらを見ている。一方で、聞く気がなかった私は「興味ないね」と素っ気無く返し、再び活字の海へ飛び込もうとした。
「昨日は雲一つない晴天でさ」
「興味ないって聞こえなかった?」
しかし、飛び込み台に登る前に太陽に阻まれてしまった。きっと私の返事など、鼻から期待していなかったのだろう。早く話したいと顔に書いてある。大袈裟に溜め息をつき、仕方なく栞を挟んで彼女の話に耳を傾けた。
「もう春が始まるっていっても、やっぱり海はまだ冷たかった。入るまでに何十回も波と追いかけっこしちゃった! でね、やっと勇気を出して全身浸かったの。いやぁ慣れって怖いね。段々温かく感じるようになってきてさ。ちょっと心に余裕が出来たから、沖まで泳ごうかなって思ったの。そしたらね、誰かが『おーい』って呼んでるの。私かな?って思って、振り返ったら……」
そこで彼女は言葉を止めた。相槌すらも跳ね返すほど喋り続けていたので、突然出来た空白に少なからず動揺する。この意味深長な止め方。もしかすると、何か重大なことがあったのかもしれない。頬を支える手が少し汗ばむ。僅かに上擦った声で、私は問うた。
「振り返ったら……?」
太陽が静かに瞼を閉じた。一つ、深い呼吸をする。普段とは似ても似つかない雰囲気が太陽の部屋を包み、その異様さに何故か緊張してしまう。ゆっくりと開いた瞳に気圧され、それでも彼女の言葉を受け入れようと身構えた。そして彼女は息を吸い、言った。
「……全っ然知らない人だったの」
「いや知らないのかよ!」
予想を大きくはずした解答に思わず大声で突っ込んでしまった。あれだけ溜めておいて知らない人だとは…… 私の緊張と汗と唾を返して欲しい。あ、いや、やっぱりいらない。
当の本人はというと、さっきの目つきはどこへやら、いつもと変わらない砕けた表情でマシンガントークを続けている。
「それでその人ね『溺れてるのー?』って聞いてきたから『泳いでるんですー』って返したの。そしたら『まだ海開きじゃないから気をつけてねー』って言われたんだ。優しいよね。見ず知らずの人を案じてくれるなんて。神様かと思っちゃったよ。だから私は神様の言うとおりに、海から出て家に帰ったんだ」
「突っ込みどころが多すぎて、もう何て言えばいいかわからないや」
一瞬だけ空いた間に言葉を滑り込ませる。やはりその言葉も届いていない彼女は珍しく溜め息をつき、話を綺麗に締めくくった。
「結局、今回も死ねませんでしたとさ。おしまい」
「私としては喜ばしいことだから、おめでとうって言っとくね。おめでとう」
やや投げやりに放った私の返答が気に食わなかったのか、彼女は頬をハムスターのように膨らませ、不服の意を表現した。もしかすると、今回も上手くいかなかったことに対する不満なのかもしれない。或いは、両方か。
少し憎たらしくなってきたので、その風船を突いてやろうと手を伸ばしかけた。しかし私の望みと相反して、指先が触れる直前にそれはしぼんでしまった。
「私にとっては何もおめでたくないよ! 去年からずっとあの手この手で死のうとしてたけど、ぜーんぶ未遂に終わっちゃって……これはもうあれかな、神様がまだ死に時じゃないって言ってるのかな」
太陽は珍しく肩を落とし、弱気な発言をした。心なしか、いつも彼女の瞳に灯る赤も、褪せて見える。もしかすると、これはチャンスかもしれない。
「そうだね。じゃあ、自殺は終わりに……」
「それでも私は、挑み続ける」
前言撤回。彼女の瞳には、今日も真っ赤な火が灯っている。
「そう。死なない程度に頑張ってね」
「うん! 死ねるように頑張るよ!」
噛み合っていない彼女との会話が一段落した所で時計を確認する。五時五十五分。ゾロ目だ、と思うより早く、門限に間に合わない、という焦りが私の心を埋め尽くした。
「やばっ、お母さんに叱られる!」
「あ、もう帰るの? もうちょっと居なよー」
「そうしたいけど、門限が六時って知ってるでしょ? あと、遅れたらどうなるかも」
「知ってるー。一週間軟禁でしょー?」
「そう。こうして太陽に会いに来ることもできなくなる」
「あー、それはやだなー。月に会うために生きてるのにー」
「はいはいありがとう。じゃ、また明日」
太陽の、間延びした「またあした」を背に受けて、私は彼女の部屋を後にした。
「……また、明日があるのかな」
*****
「なぁ、いつから学校来てないっけ?」「誰が?」「神宮寺」「あぁ。神宮寺さんね」「三ヶ月くらいじゃない?」「どうしたんだろ」「噂で聞いたんだけど、神宮寺、自殺しようとしてるらしいよ」「えっ」「なんでまたそんな……」「いや、俺も詳しくは知らないんだけどさ、あいつが海に入ろうとしてたのを見かけた奴がいたらしくて……」「海? 今の時期に?」「そう。おかしいよな」「浜辺を歩いてただけとか?」「いや、神宮寺さんはそんなことしないだろ」「確かに」「あ、もうすぐ授業始まるぞ」「ほんとだ」「じゃ、またあとから」
*****
太陽が自殺を始めたのは、半年ほど前だったと思う。
秋晴れの空と色づき始めた紅葉の中、何の前触れもなく、彼女は学校の屋上から飛び降りた。幸い、木に引っかかりつつ落ちたため命に関わるほどの怪我はしなかったが、一か月くらい入院した。
昨日まで楽しそうに笑っていた人物が突然自殺を図ったのだから、クラスはしばらくの間、彼女の話で持ちきりだった。「実は重い悩み事があった」とか「長く付き合っていた彼氏に振られた」とか、自殺の理由に関する様々な噂がまことしやかに囁かれたが、人の噂も七十五日。だんだんと、舞い落ちる木の葉の中に埋もれていってしまった。
アリもキリギリスも土の中で眠り始める頃、私は退院後も学校を休み続けている太陽の家を訪ねた。インターホンを押すと、間もなく彼女が茶色いドアの向こうから出てきた。どうやら両親は外出中らしい。「久しぶり」と笑う彼女は、屋上から飛び降りたと思えないほどに眩しかった。そんな彼女の様子に安堵した私は「久しぶり」と笑い返し、促されるまま太陽の部屋に向かい、何の疑いもなくドアを開け───息を呑んだ。
閉め切られたカーテンによる薄暗い室内、天井から下がる千切れたロープとその真下に落ちた輪っか、散乱したカッターや包帯、床や壁にほとばしる赤、赤、赤……
「あー、ごめんね。今すっごい散らかってるの」
立ち尽くす私の脇を通り抜け、太陽は平然と部屋の中に入っていった。そして「まぁ散らかってるのはいつものことなんだけど」といいつつカーテンを開け、慣れた手つきで片付けていく。太陽が飛び降りたことが信じられなくて、出迎えた時の笑顔が眩しすぎて、あれは全て私の荒唐無稽な夢だったのではないか、とさえ思っていたが、この部屋と輪に結ばれたロープを拾う姿を見せられて、認めざるを得なかった。太陽は、間違いなくあの日屋上から飛び降りたのだ、と。
机を部屋の中央に一つ、向かい合うように座布団を二つ置いて、彼女は私を手招いた。糸で操られているかのように足が進み、ドアからみて右側の座布団に座った。正面で向日葵のように笑う太陽の背後には、天井から下がる千切れたロープと抜けるような高い青空が見える。
「月が会いに来るなんて珍しいね。急にどうしたの?」
彼女からの問いかけで、瞬時に意識が戻った。と同時に、彼女に言いたかったことが口から独りでに零れていく。
「それはこっちのセリフだよ! 急にどうしたの。急に、飛び降りる、とか……」
しかし声を張り上げた途端、膨大な数の感情に襲われた。怒り、憂い、安堵、疑念、不安、驚愕、放心、後悔……彼女が人知れず消えようとした、という事実を受け止めた心が混乱しているらしい。
そんな私の様子をみた彼女は、尻すぼみになった言葉を汲んだのか、こう言った。
「あぁ、飛び降りた理由? そうだな……人生に飽きたから、かな?」
あっけらかんと、昨日見た番組の話でもするかのように放たれたその言葉は、渋滞した私の感情を一蹴した。その時私は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのだろう。太陽が目の前で笑い転げている。失礼な奴だ。
悪態を二つ、三つほどついてやろうかと考え始めた時、目元を拭いながら彼女は起き上がった。そして私の鋭い眼光を横目に、まだ少しにやついた口を開いた。
「でも、人生に飽きたから、ってだけで飛び降りたわけじゃないよ」
「え、他にもあるの?」
「当たり前じゃん! たったそれだけの理由で、飛び降りたり手首切ったりすると思う?」
「いや、太陽ならあり得るかなって」
「え……月は私の事、なんだと思ってるの……?」
「冗談だよ」
「よかったー!」
「で、理由があるんでしょ?」
「あるよ! 他の理由。一番の理由が」
「それは、何?」
「……──────」
それからも太陽は、自殺を続けている。
「この部屋、なんか散らかってきたね」
自分の部屋を見まわしながら、太陽はそう言った。確かに、先週よりも整頓されていない気がする。
「月が来ないと、部屋を片付ける気にならないんだよねぇ」
「私がいなくても片付けなよ……」
それは無理ー、と口を尖らせる彼女は、一週間前からも、自殺の理由を聞いたあの日からも、何一つ変わってなかった。それが良い事なのか悪い事なのかはわからないが、とりあえず、まだ生きていて良かった。軟禁されていた一週間、彼女が死んでいないかだけが心配だったのだ。
「てか、最近の太陽にしては珍しいね。部屋が汚いって」
「まぁねー。部屋が片付いてないのは、私の『自殺ルール』に反するから」
「じさつるーる?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
不思議そうに首をかしげる彼女を見ながら、私は記憶を探る。自殺ルール……? 以前言われたような気がしなくもないが……
「覚えてないね」
「えー、ひっどいなぁ。じゃあ、ここでおさらいしちゃうよー!」
意気揚々と立ち上がった太陽の瞳には、今日も変わらず鮮やかな赤が灯っていた。
彼女は話は散漫なので、要点を短くまとめよう。
太陽の自殺ルールは、三つある。
一つ目は、人に迷惑をかけない。生きている時には色んな人に迷惑をかけてきたから、死ぬときぐらいは一人で勝手に死ぬ。例えば、列車への飛び込みや道路に飛び出す、などはルール違反である。
二つ目は、遺書はその度書く。人生何が起こるかわからないから、自殺の度に最新の心情を書いておきたいらしい。なお、遺書には日付を書いておかなければならない。
三つめは、部屋は美しく。部屋は、両親がいつまでもそのままの状態で残す可能性があるから、常に綺麗にしておく。立つ鳥跡を濁さず、ということだ。
「以上! このルールを守って、清く正しく美しく、自殺をすること!」
彼女は最後をこう締めくくった。自殺に清くも正しくも美しくもないだろうと言ったら、美しくはあるよ、と返された。
「棺桶に、白百合をいっぱい入れて、その中で眠るの。蓋を閉めてね。そしたら、白百合の花粉に含まれる毒が体に回って、眠るように息を引き取るの。これだったら美しく死ねるし、棺桶に入れる手間も省けるから一石二鳥だよ!」
「あ、それ聞いたことある。都市伝説じゃなかったっけ?」
「えっ、嘘なの?」
「嘘っていうか、若干違うかな。確かに百合には毒があるけど、それが効くのは猫で、人間は分解されるから効果が薄いんじゃなかったけな」
「薄いってことは、効くには効くってこと?」
「大量に摂取したらね。要は食べなきゃ意味ないってことだよ」
「うえぇ、美味しくなさそう」
彼女は顔を歪めて「じゃあ百合の花で死ぬのは無しだな」と呟いた。よかった、選択肢が一つ減って。
「よし、じゃあ今日はお片付けをしよー!」
さっき口を尖らせていたと思ったら、もう快活に笑っている。情緒不安定なのか、単にバカなのか。知り合って二年になろうとしているが、未だに太陽のことがよく掴めない。
「どうぞ、ご自由に」
「えー、月も手伝ってよ!」
「生憎、両手には塞がる予定が入ってるんだ」
「本で?」
「本で」
「そんな予定は取っ払っちまえよ!」
「誰の真似だよ」
江戸っ子よろしく「てやんでぃ!」と叫ぶ太陽に呆れつつ、バックに入れかけていた左手を戻した。流石に片付けている人がいる中で読書はできない。罪悪感に苛まれるからだ。それと、太陽が一人でこの部屋を片付けようものなら、お天道様はあと二回昇らなければならないだろう。理由は、言うまでもない。
立ち上がって、床に散らばったものを拾っていく。太陽は雑巾を取りに一階へ行った。友達に自分の部屋の掃除をさせるなんて、普通じゃ考えられない。でも、普通じゃ考えられないことをするのが太陽という人物だ。私もまた普通じゃないので、彼女の提案に賛成する。
私達は似た者同士ではない。むしろ正反対だ。性格も、考え方も、趣味趣向も。名前ですら、示し合わせたように対になっている。「太陽」と「月」だなんて、良く出来た偶然だ。でも、たった一つ「普通という中心から外れた者である」という点では同じだ。「個性」と「普通」がせめぎ合い、並んだ列から外れれば罵られ、上手く息ができなかった中学時代を送った。彼女がそうだったかはわからないが、高校に入る以前のことを話したがらないので、多分同じだろう。私達はきっと、その「たった一つの共通点」に魅かれ合って、仲良くなったのだ。少なくとも私は、そう思っている。
バケツと二枚の雑巾を持って太陽は戻ってきた。ちゃっかりジャージに着替えている。一回家に帰って着替えようかと思ったが、面倒だったのでやめた。すると、私の心を読んだのか、彼女は別のジャージを貸してくれた。驚きと嬉しさで呟いたありがとうには、三倍の大きさのどういたしましてが返ってきた。
最初は互いに無言で掃除をしていた。本当に日が暮れてしまうと思ったのだろう。作業は思ったよりも順調に進んだ。一時間ほど経った頃、少し余裕が出てきたのか、雑巾を絞っていた太陽がおもむろに口を開いた。
「あのT字路、また事故が起こったらしいよ」
「え、また?」
あのT字路、とは、この街では有名な、衝突事故の多い場所である。両サイドに住宅の高い塀があって見通しが悪いだけでなく、カーブミラーが水垢や落書きで見えないほどに汚れているのだ。
「まただよー。多いよね」
「今月で何件目?」
「んー、三件目かな? あそこ見通し悪いのに、カーブミラーめっちゃ汚いよね」
「なんで掃除しないんだろうね」
「役所の人達も忙しいんじゃない? 今度、掃除しに行こうよ」
「え、面倒くさい」
「人助けだよ! 奉仕の精神だよ! 情けは人の為ならず、だよ!」
「はいはいわかったわかった。来週末ね」
やや投げやりな返答を受け取った彼女は、相当嬉しかったのか両手を挙げて喜んだ。その拍子に彼女の手から水飛沫が飛び散り、いくつかが私に命中した。やっぱり、断った方がよかっただろうか。
先ほど太陽は、人助けがどうとか言っていたが、私は情けだとか奉仕だとか人助けだとか、そんな体のいい言葉に釣られて折れたわけではない。
私は、未来の約束をして、太陽の鼓動を少しでも長く響かせたかったのだ。
自殺を止める一番良い方法は、未来の約束をすることだと思う。よく「生きろ」や「諦めるな」といった元気づけるような言葉が防止ポスターに書かれているが、正直、それらはあまり心に響かない。実際、その標語で大賞を取ったことがある太陽は現在、自殺未遂三昧の日々を送っている。本当にその人のことを救いたいのならば、別のことを考えさせればいい。例えば「明日は好きなアーティストの新曲が発表される」とか「来週見たい番組がある」とか。「明日の夕飯は好きなものだ」といった、日常に散らばる些細な幸せでも十分良い。とにかく、自殺願望はいったん棚に上げて、明日の希望を与える。それを続けることで、少しずつ棚に上げた願望が消えていくのだ。
そう信じて私はこの半年間、少しずつ少しずつ、太陽の命を本来の長さまで繋いでいる。本人に悟られないよう事あるごとに約束をしては果たし、また約束をしては果たすことを続けている。毎日去り際に告げる「また明日」にも、そういう意味があるのだ。これが私のエゴだということは分かっている。自分勝手だなんて、分かり切っている。私がやっているのは、本人が望まない延命治療と一緒だ。だけど、それでも、彼女には生きてほしい。暗く冷たい夜の底に沈んでいた私に、眩い光をもたらしてくれた太陽には、その命数が尽きるまで生きていてほしいのだ。
「ねぇ太陽」
「ん? なぁに?」
「……来週末、ちゃんと、掃除するんだよ」
きっとこの言葉の意味なんて伝わらない。伝わらなくていい。太陽が約束を果たしてくれれば、それでいい。
「今だってちゃんと掃除してます~」
「そう? さっきからずっと同じとこ拭いてるようにみえるけど」
「ちょ、ちょっと汚れが取れにくいだけ!」
雑巾を掲げてふくれっ面で反抗する太陽の目には、変わらず赤が灯っていた。一度消えかけたその灯火を、絶対に消さないように守っていこう。そう強く思った。
それが、確か三か月くらい前の出来事だと思う。
*****
「なぁ、そういえばさ」「何?」「神宮寺のことなんだけど」「また? お前、神宮寺さんのこと好きなの?」「は? 違うわ」「あ、それ僕も思った。やたら心配するよね」「そんなんじゃねぇよ。クラスメイトが不登校になってたら誰でも心配するだろ」「でも、不登校は不登校でも、朝霧さんのことは話さないじゃん?」「それは、朝霧よりも神宮寺のことをよく耳にするってだけ。朝霧のことだって心配だよ」「へぇ、本当かな?」「うるせぇ」「で、今度は何だ?」「……神宮寺を、見かけた」「どこで?」「……あのT路地」「えっ」「じゃあ、やっぱ自殺……」「それが、朝霧と一緒だったんだよ」「朝霧さんと?」「そういえばあの二人、仲良かったな」「性格は反対だけどな」「なんで一緒だったんだろうな」「さぁな」「あ、そういえば今日の購買さ……」
*****
今日も傘を濡らした。空が泣いている、と比喩されることが多いが、私は世界中の人々の涙が集まっているのだと思う。一年かけて集まった涙はやがて暗雲となり、私達の上に降り注ぐ。きっと昨年は、頬を濡らす人が多かったのだろう。私や太陽のように。
誰もが湿気に苛立っている今日この頃、太陽は相変わらず元気に傷を増やしていた。自分が知っている方法をやりつくした後も「一回やっただけじゃわかんないよ。どこぞの英語スクールも十回お試しできるんだし!」と言って二週目に入っていた。腕に巻かれた包帯も、天井から下がったままのロープも、不本意だが見慣れてしまった。
「ねぇ、今日は何する? 雨が降ってるからできること少ないよね」
迫る季節を連想させる笑顔で彼女は言った。いつもの抜けるような高い青空は、今日は灰色に塗りつぶされている。
ずっと気になっていたことを、聞いてみようと思った。
「あのさ、太陽」
「なにー?」
「いつまで、続けるの?」
「何をー?」
「……自殺」
瞬間、太陽の表情が固まった。世界から音が消えた。淀んだ空気が張り詰めた気がした。
しかし瞬く間に、空気以外は元に戻ってしまった。
「もう、一年くらいになるよね?」
「何が?」
「太陽が、飛び降りてから」
「あぁ……まだだよ。あと四ヶ月」
「……もう、わかったから」
「わかったって、何が?」
「太陽の気持ち」
彼女が自殺をする理由は二つある。一つは、人生に飽きたから。もう一つは───
「太陽の、私が死のうとした時の気持ちが」
私───神宮寺 月が、自殺を図ったから。
珍しい話ではない。似たようなことを経験した人は少なくないだろう。
歳が離れた兄はとても優秀だった。ありとあらゆる能力に長けていて、人望も並大抵ではなかった。反面、私には才能がなかった。すべて兄に取られたのだろう。何をやっても中の中で、目立つことはなかった。期待に応えられない娘に対し両親は『同じ血が流れているから、出来ないことはない』と判断し、過度な規則と罰で縛った。第二の兄を作ろうとしていたのだろう。しかしながら当然、私は兄ではない。兄が完遂できたノルマを達成することは出来ない。定められた目標に届かないと、規則が増えた。罰も受けた。『私』など、どこにもいなかった。
高校生になって、少しだけ自由を持てるようになった。スパルタなんて言葉では足りないほどの教育のおかげか、兄と同じ高校に入学できたからだ。その時の私は、浮かれていた。両親にやっと認められた気がした。だから、恋なんてものに溺れたのだ。束の間の自由は、永遠に失われた。
再び拘束された日々に戻った時、私はとても窮屈に感じた。確かに、以前よりも縛られていたと思う。家庭教師を雇って学校に行かせなかったり、習い事が増えたりした。しかし、かつての私ならば何も感じなかったはずの日常が、どうしてか息苦しくて堪らなかった。きっと、自由を知ってしまったからだ。寸刻だったが、鮮少だったが、幸せを味わってしまったからだ。夜の暗さを知らなければ昼の明るさがわからないように、幸福を知らなければ不幸など知り得ない。こんなに苦しいなら、知らなければよかった。心身ともに疲弊しきった私は、一人で、夜の海へ沈もうとした。
しかしながらそれは、未遂に終わった。偶然通りかかった太陽が連絡を入れ、命からがら救出されたからだ。真っ白いベッドの上で最初に見えたのは、母親の涙。続いて、下唇を噛む父。最後に、息を荒げた太陽だった。後から聞いた話だが、私が眠っている間、太陽は両親を説得していたらしい。貴方達の教育はおかしいとか、月は兄ではないとか。説得というより、説教に近いことを叫び続け、両親はやっと自分達がしていた事の異常さに気付いた。初めて受けた母からの抱擁は、温かくて、少しだけ痛かった。
それからというもの、規則は緩和し、唯一、門限だけが残った。午後六時を過ぎて帰宅した場合、一週間家に軟禁する。以前はただ私を縛るだけのルールだったが、母が言うには、
「私達はきっと、貴方のことをまだ何も知らないの。もう十何年も一緒にいるのに、名前もこの両手で足りるくらいしか呼んだことがない。おかしいよね。だから、出来る限り月と一緒にいたい。本当の家族になりたいの」
ということらしい。
確かに私達は「家族」ではなかった。研究者と実験台のような、殺伐とした関係だった。血縁関係があるから家族なのではなく、お互いを大切に想い合っているから家族なのだろう。私達はその日、初めて「家族」になった。遅すぎるスタートだったが、太陽がいなければ始まってすらいなかった。彼女がいてくれて、本当によかった。そして、全てが円満に解決した。
と思っていたのは、私だけだった。
太陽は、私が何の相談もせず海の底へ沈もうとしたことを、ひどく怒っていた。どうしてそこまで苦しんでいたのに話をしてくれなかったのか、頼ってくれなかったのか。そういった不満が溜まっていき、どうしたら私に伝わるかを考えた。そして出した答えが、「自殺未遂」だった。私に同じ気持ちを味わわせることで、その時の太陽の思いを理解してもらい、もう二度としないと誓わせたかったらしい。タイミングを図って、私が海に飛び込んだ二か月後、彼女は屋上から飛び降りた。
「……ううん、まだだよ。まだわかってない」
あの日と───彼女が飛び降りた理由を話した日と同じトーンで、彼女は言った。先程よりも雨音は大きくなっている。
「十分わかったよ。どれほど不安だったか、どれほど怖かったか、どれほど」
「そんなわけない!」
床を叩くと同時に彼女は叫んだ。あまりの大きさに肩が跳ねる。
「月にはわからないよ! 私の恐怖も! 不安も! 怒りも! 悲しみも! 前触れもなく別れを突きつけられた絶望も、親友が辛いことに気づいてあげれなかった後悔も、なんとか助けることができた安堵も、全部、全部……」
わからないよ、という言葉は、窓を叩く水滴に消された。俯く彼女にそっと近づき、静かに、優しく抱き寄せる。やはり昨年は、涙にくれる人が多かったのだ。私も太陽もその一端を担っている。もしかすると、大半は私達なのかもしれない。今日だってこうやって、雫を流しているのだから。
ごめんね、と呟く。
彼女からの返事はない。
ごめんね、と呟く。
雨は止まない。
ごめんね、と呟く。
……二度と、しないでね、と聞こえた。
うん、と強く返す。
雨音は、いつの間にか姿を消していた。
******
久々に袖を通した制服は、まるで借り物のようだった。何事も「久しぶり」は馴染まないものだ。でも、慣れるまでにそう時間はかからないだろう。綺麗なままの革靴を履き、笑顔で両親に「いってきます」と告げる。笑顔で返された「いってらっしゃい」を背に、茶色の扉を開く。どうやら梅雨は明けたようで、蝉の声が近付いていた。
あのT路地に差し掛かった時、偶然見慣れた後姿を発見した。声をかけるとその人はすぐに振り返り、いつもの砕けた顔で笑った。私も、大きく笑い返した。
これから先、私はまた海に飛び込みたくなるかもしれない。隣を歩く彼女も、屋上から飛び降りたくなるかもしれない。でもその度、雨の日に交わした約束を思い出すだろう。そしてまた、懸命に生きるだろう。
水溜りを飛び越えて、私は駆け出した。
太陽は、斜陽が差し込む部屋で俄かにそう切り出した。大きな瞳を爛然と輝かせ、満ち足りた表情でこちらを見ている。一方で、聞く気がなかった私は「興味ないね」と素っ気無く返し、再び活字の海へ飛び込もうとした。
「昨日は雲一つない晴天でさ」
「興味ないって聞こえなかった?」
しかし、飛び込み台に登る前に太陽に阻まれてしまった。きっと私の返事など、鼻から期待していなかったのだろう。早く話したいと顔に書いてある。大袈裟に溜め息をつき、仕方なく栞を挟んで彼女の話に耳を傾けた。
「もう春が始まるっていっても、やっぱり海はまだ冷たかった。入るまでに何十回も波と追いかけっこしちゃった! でね、やっと勇気を出して全身浸かったの。いやぁ慣れって怖いね。段々温かく感じるようになってきてさ。ちょっと心に余裕が出来たから、沖まで泳ごうかなって思ったの。そしたらね、誰かが『おーい』って呼んでるの。私かな?って思って、振り返ったら……」
そこで彼女は言葉を止めた。相槌すらも跳ね返すほど喋り続けていたので、突然出来た空白に少なからず動揺する。この意味深長な止め方。もしかすると、何か重大なことがあったのかもしれない。頬を支える手が少し汗ばむ。僅かに上擦った声で、私は問うた。
「振り返ったら……?」
太陽が静かに瞼を閉じた。一つ、深い呼吸をする。普段とは似ても似つかない雰囲気が太陽の部屋を包み、その異様さに何故か緊張してしまう。ゆっくりと開いた瞳に気圧され、それでも彼女の言葉を受け入れようと身構えた。そして彼女は息を吸い、言った。
「……全っ然知らない人だったの」
「いや知らないのかよ!」
予想を大きくはずした解答に思わず大声で突っ込んでしまった。あれだけ溜めておいて知らない人だとは…… 私の緊張と汗と唾を返して欲しい。あ、いや、やっぱりいらない。
当の本人はというと、さっきの目つきはどこへやら、いつもと変わらない砕けた表情でマシンガントークを続けている。
「それでその人ね『溺れてるのー?』って聞いてきたから『泳いでるんですー』って返したの。そしたら『まだ海開きじゃないから気をつけてねー』って言われたんだ。優しいよね。見ず知らずの人を案じてくれるなんて。神様かと思っちゃったよ。だから私は神様の言うとおりに、海から出て家に帰ったんだ」
「突っ込みどころが多すぎて、もう何て言えばいいかわからないや」
一瞬だけ空いた間に言葉を滑り込ませる。やはりその言葉も届いていない彼女は珍しく溜め息をつき、話を綺麗に締めくくった。
「結局、今回も死ねませんでしたとさ。おしまい」
「私としては喜ばしいことだから、おめでとうって言っとくね。おめでとう」
やや投げやりに放った私の返答が気に食わなかったのか、彼女は頬をハムスターのように膨らませ、不服の意を表現した。もしかすると、今回も上手くいかなかったことに対する不満なのかもしれない。或いは、両方か。
少し憎たらしくなってきたので、その風船を突いてやろうと手を伸ばしかけた。しかし私の望みと相反して、指先が触れる直前にそれはしぼんでしまった。
「私にとっては何もおめでたくないよ! 去年からずっとあの手この手で死のうとしてたけど、ぜーんぶ未遂に終わっちゃって……これはもうあれかな、神様がまだ死に時じゃないって言ってるのかな」
太陽は珍しく肩を落とし、弱気な発言をした。心なしか、いつも彼女の瞳に灯る赤も、褪せて見える。もしかすると、これはチャンスかもしれない。
「そうだね。じゃあ、自殺は終わりに……」
「それでも私は、挑み続ける」
前言撤回。彼女の瞳には、今日も真っ赤な火が灯っている。
「そう。死なない程度に頑張ってね」
「うん! 死ねるように頑張るよ!」
噛み合っていない彼女との会話が一段落した所で時計を確認する。五時五十五分。ゾロ目だ、と思うより早く、門限に間に合わない、という焦りが私の心を埋め尽くした。
「やばっ、お母さんに叱られる!」
「あ、もう帰るの? もうちょっと居なよー」
「そうしたいけど、門限が六時って知ってるでしょ? あと、遅れたらどうなるかも」
「知ってるー。一週間軟禁でしょー?」
「そう。こうして太陽に会いに来ることもできなくなる」
「あー、それはやだなー。月に会うために生きてるのにー」
「はいはいありがとう。じゃ、また明日」
太陽の、間延びした「またあした」を背に受けて、私は彼女の部屋を後にした。
「……また、明日があるのかな」
*****
「なぁ、いつから学校来てないっけ?」「誰が?」「神宮寺」「あぁ。神宮寺さんね」「三ヶ月くらいじゃない?」「どうしたんだろ」「噂で聞いたんだけど、神宮寺、自殺しようとしてるらしいよ」「えっ」「なんでまたそんな……」「いや、俺も詳しくは知らないんだけどさ、あいつが海に入ろうとしてたのを見かけた奴がいたらしくて……」「海? 今の時期に?」「そう。おかしいよな」「浜辺を歩いてただけとか?」「いや、神宮寺さんはそんなことしないだろ」「確かに」「あ、もうすぐ授業始まるぞ」「ほんとだ」「じゃ、またあとから」
*****
太陽が自殺を始めたのは、半年ほど前だったと思う。
秋晴れの空と色づき始めた紅葉の中、何の前触れもなく、彼女は学校の屋上から飛び降りた。幸い、木に引っかかりつつ落ちたため命に関わるほどの怪我はしなかったが、一か月くらい入院した。
昨日まで楽しそうに笑っていた人物が突然自殺を図ったのだから、クラスはしばらくの間、彼女の話で持ちきりだった。「実は重い悩み事があった」とか「長く付き合っていた彼氏に振られた」とか、自殺の理由に関する様々な噂がまことしやかに囁かれたが、人の噂も七十五日。だんだんと、舞い落ちる木の葉の中に埋もれていってしまった。
アリもキリギリスも土の中で眠り始める頃、私は退院後も学校を休み続けている太陽の家を訪ねた。インターホンを押すと、間もなく彼女が茶色いドアの向こうから出てきた。どうやら両親は外出中らしい。「久しぶり」と笑う彼女は、屋上から飛び降りたと思えないほどに眩しかった。そんな彼女の様子に安堵した私は「久しぶり」と笑い返し、促されるまま太陽の部屋に向かい、何の疑いもなくドアを開け───息を呑んだ。
閉め切られたカーテンによる薄暗い室内、天井から下がる千切れたロープとその真下に落ちた輪っか、散乱したカッターや包帯、床や壁にほとばしる赤、赤、赤……
「あー、ごめんね。今すっごい散らかってるの」
立ち尽くす私の脇を通り抜け、太陽は平然と部屋の中に入っていった。そして「まぁ散らかってるのはいつものことなんだけど」といいつつカーテンを開け、慣れた手つきで片付けていく。太陽が飛び降りたことが信じられなくて、出迎えた時の笑顔が眩しすぎて、あれは全て私の荒唐無稽な夢だったのではないか、とさえ思っていたが、この部屋と輪に結ばれたロープを拾う姿を見せられて、認めざるを得なかった。太陽は、間違いなくあの日屋上から飛び降りたのだ、と。
机を部屋の中央に一つ、向かい合うように座布団を二つ置いて、彼女は私を手招いた。糸で操られているかのように足が進み、ドアからみて右側の座布団に座った。正面で向日葵のように笑う太陽の背後には、天井から下がる千切れたロープと抜けるような高い青空が見える。
「月が会いに来るなんて珍しいね。急にどうしたの?」
彼女からの問いかけで、瞬時に意識が戻った。と同時に、彼女に言いたかったことが口から独りでに零れていく。
「それはこっちのセリフだよ! 急にどうしたの。急に、飛び降りる、とか……」
しかし声を張り上げた途端、膨大な数の感情に襲われた。怒り、憂い、安堵、疑念、不安、驚愕、放心、後悔……彼女が人知れず消えようとした、という事実を受け止めた心が混乱しているらしい。
そんな私の様子をみた彼女は、尻すぼみになった言葉を汲んだのか、こう言った。
「あぁ、飛び降りた理由? そうだな……人生に飽きたから、かな?」
あっけらかんと、昨日見た番組の話でもするかのように放たれたその言葉は、渋滞した私の感情を一蹴した。その時私は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのだろう。太陽が目の前で笑い転げている。失礼な奴だ。
悪態を二つ、三つほどついてやろうかと考え始めた時、目元を拭いながら彼女は起き上がった。そして私の鋭い眼光を横目に、まだ少しにやついた口を開いた。
「でも、人生に飽きたから、ってだけで飛び降りたわけじゃないよ」
「え、他にもあるの?」
「当たり前じゃん! たったそれだけの理由で、飛び降りたり手首切ったりすると思う?」
「いや、太陽ならあり得るかなって」
「え……月は私の事、なんだと思ってるの……?」
「冗談だよ」
「よかったー!」
「で、理由があるんでしょ?」
「あるよ! 他の理由。一番の理由が」
「それは、何?」
「……──────」
それからも太陽は、自殺を続けている。
「この部屋、なんか散らかってきたね」
自分の部屋を見まわしながら、太陽はそう言った。確かに、先週よりも整頓されていない気がする。
「月が来ないと、部屋を片付ける気にならないんだよねぇ」
「私がいなくても片付けなよ……」
それは無理ー、と口を尖らせる彼女は、一週間前からも、自殺の理由を聞いたあの日からも、何一つ変わってなかった。それが良い事なのか悪い事なのかはわからないが、とりあえず、まだ生きていて良かった。軟禁されていた一週間、彼女が死んでいないかだけが心配だったのだ。
「てか、最近の太陽にしては珍しいね。部屋が汚いって」
「まぁねー。部屋が片付いてないのは、私の『自殺ルール』に反するから」
「じさつるーる?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
不思議そうに首をかしげる彼女を見ながら、私は記憶を探る。自殺ルール……? 以前言われたような気がしなくもないが……
「覚えてないね」
「えー、ひっどいなぁ。じゃあ、ここでおさらいしちゃうよー!」
意気揚々と立ち上がった太陽の瞳には、今日も変わらず鮮やかな赤が灯っていた。
彼女は話は散漫なので、要点を短くまとめよう。
太陽の自殺ルールは、三つある。
一つ目は、人に迷惑をかけない。生きている時には色んな人に迷惑をかけてきたから、死ぬときぐらいは一人で勝手に死ぬ。例えば、列車への飛び込みや道路に飛び出す、などはルール違反である。
二つ目は、遺書はその度書く。人生何が起こるかわからないから、自殺の度に最新の心情を書いておきたいらしい。なお、遺書には日付を書いておかなければならない。
三つめは、部屋は美しく。部屋は、両親がいつまでもそのままの状態で残す可能性があるから、常に綺麗にしておく。立つ鳥跡を濁さず、ということだ。
「以上! このルールを守って、清く正しく美しく、自殺をすること!」
彼女は最後をこう締めくくった。自殺に清くも正しくも美しくもないだろうと言ったら、美しくはあるよ、と返された。
「棺桶に、白百合をいっぱい入れて、その中で眠るの。蓋を閉めてね。そしたら、白百合の花粉に含まれる毒が体に回って、眠るように息を引き取るの。これだったら美しく死ねるし、棺桶に入れる手間も省けるから一石二鳥だよ!」
「あ、それ聞いたことある。都市伝説じゃなかったっけ?」
「えっ、嘘なの?」
「嘘っていうか、若干違うかな。確かに百合には毒があるけど、それが効くのは猫で、人間は分解されるから効果が薄いんじゃなかったけな」
「薄いってことは、効くには効くってこと?」
「大量に摂取したらね。要は食べなきゃ意味ないってことだよ」
「うえぇ、美味しくなさそう」
彼女は顔を歪めて「じゃあ百合の花で死ぬのは無しだな」と呟いた。よかった、選択肢が一つ減って。
「よし、じゃあ今日はお片付けをしよー!」
さっき口を尖らせていたと思ったら、もう快活に笑っている。情緒不安定なのか、単にバカなのか。知り合って二年になろうとしているが、未だに太陽のことがよく掴めない。
「どうぞ、ご自由に」
「えー、月も手伝ってよ!」
「生憎、両手には塞がる予定が入ってるんだ」
「本で?」
「本で」
「そんな予定は取っ払っちまえよ!」
「誰の真似だよ」
江戸っ子よろしく「てやんでぃ!」と叫ぶ太陽に呆れつつ、バックに入れかけていた左手を戻した。流石に片付けている人がいる中で読書はできない。罪悪感に苛まれるからだ。それと、太陽が一人でこの部屋を片付けようものなら、お天道様はあと二回昇らなければならないだろう。理由は、言うまでもない。
立ち上がって、床に散らばったものを拾っていく。太陽は雑巾を取りに一階へ行った。友達に自分の部屋の掃除をさせるなんて、普通じゃ考えられない。でも、普通じゃ考えられないことをするのが太陽という人物だ。私もまた普通じゃないので、彼女の提案に賛成する。
私達は似た者同士ではない。むしろ正反対だ。性格も、考え方も、趣味趣向も。名前ですら、示し合わせたように対になっている。「太陽」と「月」だなんて、良く出来た偶然だ。でも、たった一つ「普通という中心から外れた者である」という点では同じだ。「個性」と「普通」がせめぎ合い、並んだ列から外れれば罵られ、上手く息ができなかった中学時代を送った。彼女がそうだったかはわからないが、高校に入る以前のことを話したがらないので、多分同じだろう。私達はきっと、その「たった一つの共通点」に魅かれ合って、仲良くなったのだ。少なくとも私は、そう思っている。
バケツと二枚の雑巾を持って太陽は戻ってきた。ちゃっかりジャージに着替えている。一回家に帰って着替えようかと思ったが、面倒だったのでやめた。すると、私の心を読んだのか、彼女は別のジャージを貸してくれた。驚きと嬉しさで呟いたありがとうには、三倍の大きさのどういたしましてが返ってきた。
最初は互いに無言で掃除をしていた。本当に日が暮れてしまうと思ったのだろう。作業は思ったよりも順調に進んだ。一時間ほど経った頃、少し余裕が出てきたのか、雑巾を絞っていた太陽がおもむろに口を開いた。
「あのT字路、また事故が起こったらしいよ」
「え、また?」
あのT字路、とは、この街では有名な、衝突事故の多い場所である。両サイドに住宅の高い塀があって見通しが悪いだけでなく、カーブミラーが水垢や落書きで見えないほどに汚れているのだ。
「まただよー。多いよね」
「今月で何件目?」
「んー、三件目かな? あそこ見通し悪いのに、カーブミラーめっちゃ汚いよね」
「なんで掃除しないんだろうね」
「役所の人達も忙しいんじゃない? 今度、掃除しに行こうよ」
「え、面倒くさい」
「人助けだよ! 奉仕の精神だよ! 情けは人の為ならず、だよ!」
「はいはいわかったわかった。来週末ね」
やや投げやりな返答を受け取った彼女は、相当嬉しかったのか両手を挙げて喜んだ。その拍子に彼女の手から水飛沫が飛び散り、いくつかが私に命中した。やっぱり、断った方がよかっただろうか。
先ほど太陽は、人助けがどうとか言っていたが、私は情けだとか奉仕だとか人助けだとか、そんな体のいい言葉に釣られて折れたわけではない。
私は、未来の約束をして、太陽の鼓動を少しでも長く響かせたかったのだ。
自殺を止める一番良い方法は、未来の約束をすることだと思う。よく「生きろ」や「諦めるな」といった元気づけるような言葉が防止ポスターに書かれているが、正直、それらはあまり心に響かない。実際、その標語で大賞を取ったことがある太陽は現在、自殺未遂三昧の日々を送っている。本当にその人のことを救いたいのならば、別のことを考えさせればいい。例えば「明日は好きなアーティストの新曲が発表される」とか「来週見たい番組がある」とか。「明日の夕飯は好きなものだ」といった、日常に散らばる些細な幸せでも十分良い。とにかく、自殺願望はいったん棚に上げて、明日の希望を与える。それを続けることで、少しずつ棚に上げた願望が消えていくのだ。
そう信じて私はこの半年間、少しずつ少しずつ、太陽の命を本来の長さまで繋いでいる。本人に悟られないよう事あるごとに約束をしては果たし、また約束をしては果たすことを続けている。毎日去り際に告げる「また明日」にも、そういう意味があるのだ。これが私のエゴだということは分かっている。自分勝手だなんて、分かり切っている。私がやっているのは、本人が望まない延命治療と一緒だ。だけど、それでも、彼女には生きてほしい。暗く冷たい夜の底に沈んでいた私に、眩い光をもたらしてくれた太陽には、その命数が尽きるまで生きていてほしいのだ。
「ねぇ太陽」
「ん? なぁに?」
「……来週末、ちゃんと、掃除するんだよ」
きっとこの言葉の意味なんて伝わらない。伝わらなくていい。太陽が約束を果たしてくれれば、それでいい。
「今だってちゃんと掃除してます~」
「そう? さっきからずっと同じとこ拭いてるようにみえるけど」
「ちょ、ちょっと汚れが取れにくいだけ!」
雑巾を掲げてふくれっ面で反抗する太陽の目には、変わらず赤が灯っていた。一度消えかけたその灯火を、絶対に消さないように守っていこう。そう強く思った。
それが、確か三か月くらい前の出来事だと思う。
*****
「なぁ、そういえばさ」「何?」「神宮寺のことなんだけど」「また? お前、神宮寺さんのこと好きなの?」「は? 違うわ」「あ、それ僕も思った。やたら心配するよね」「そんなんじゃねぇよ。クラスメイトが不登校になってたら誰でも心配するだろ」「でも、不登校は不登校でも、朝霧さんのことは話さないじゃん?」「それは、朝霧よりも神宮寺のことをよく耳にするってだけ。朝霧のことだって心配だよ」「へぇ、本当かな?」「うるせぇ」「で、今度は何だ?」「……神宮寺を、見かけた」「どこで?」「……あのT路地」「えっ」「じゃあ、やっぱ自殺……」「それが、朝霧と一緒だったんだよ」「朝霧さんと?」「そういえばあの二人、仲良かったな」「性格は反対だけどな」「なんで一緒だったんだろうな」「さぁな」「あ、そういえば今日の購買さ……」
*****
今日も傘を濡らした。空が泣いている、と比喩されることが多いが、私は世界中の人々の涙が集まっているのだと思う。一年かけて集まった涙はやがて暗雲となり、私達の上に降り注ぐ。きっと昨年は、頬を濡らす人が多かったのだろう。私や太陽のように。
誰もが湿気に苛立っている今日この頃、太陽は相変わらず元気に傷を増やしていた。自分が知っている方法をやりつくした後も「一回やっただけじゃわかんないよ。どこぞの英語スクールも十回お試しできるんだし!」と言って二週目に入っていた。腕に巻かれた包帯も、天井から下がったままのロープも、不本意だが見慣れてしまった。
「ねぇ、今日は何する? 雨が降ってるからできること少ないよね」
迫る季節を連想させる笑顔で彼女は言った。いつもの抜けるような高い青空は、今日は灰色に塗りつぶされている。
ずっと気になっていたことを、聞いてみようと思った。
「あのさ、太陽」
「なにー?」
「いつまで、続けるの?」
「何をー?」
「……自殺」
瞬間、太陽の表情が固まった。世界から音が消えた。淀んだ空気が張り詰めた気がした。
しかし瞬く間に、空気以外は元に戻ってしまった。
「もう、一年くらいになるよね?」
「何が?」
「太陽が、飛び降りてから」
「あぁ……まだだよ。あと四ヶ月」
「……もう、わかったから」
「わかったって、何が?」
「太陽の気持ち」
彼女が自殺をする理由は二つある。一つは、人生に飽きたから。もう一つは───
「太陽の、私が死のうとした時の気持ちが」
私───神宮寺 月が、自殺を図ったから。
珍しい話ではない。似たようなことを経験した人は少なくないだろう。
歳が離れた兄はとても優秀だった。ありとあらゆる能力に長けていて、人望も並大抵ではなかった。反面、私には才能がなかった。すべて兄に取られたのだろう。何をやっても中の中で、目立つことはなかった。期待に応えられない娘に対し両親は『同じ血が流れているから、出来ないことはない』と判断し、過度な規則と罰で縛った。第二の兄を作ろうとしていたのだろう。しかしながら当然、私は兄ではない。兄が完遂できたノルマを達成することは出来ない。定められた目標に届かないと、規則が増えた。罰も受けた。『私』など、どこにもいなかった。
高校生になって、少しだけ自由を持てるようになった。スパルタなんて言葉では足りないほどの教育のおかげか、兄と同じ高校に入学できたからだ。その時の私は、浮かれていた。両親にやっと認められた気がした。だから、恋なんてものに溺れたのだ。束の間の自由は、永遠に失われた。
再び拘束された日々に戻った時、私はとても窮屈に感じた。確かに、以前よりも縛られていたと思う。家庭教師を雇って学校に行かせなかったり、習い事が増えたりした。しかし、かつての私ならば何も感じなかったはずの日常が、どうしてか息苦しくて堪らなかった。きっと、自由を知ってしまったからだ。寸刻だったが、鮮少だったが、幸せを味わってしまったからだ。夜の暗さを知らなければ昼の明るさがわからないように、幸福を知らなければ不幸など知り得ない。こんなに苦しいなら、知らなければよかった。心身ともに疲弊しきった私は、一人で、夜の海へ沈もうとした。
しかしながらそれは、未遂に終わった。偶然通りかかった太陽が連絡を入れ、命からがら救出されたからだ。真っ白いベッドの上で最初に見えたのは、母親の涙。続いて、下唇を噛む父。最後に、息を荒げた太陽だった。後から聞いた話だが、私が眠っている間、太陽は両親を説得していたらしい。貴方達の教育はおかしいとか、月は兄ではないとか。説得というより、説教に近いことを叫び続け、両親はやっと自分達がしていた事の異常さに気付いた。初めて受けた母からの抱擁は、温かくて、少しだけ痛かった。
それからというもの、規則は緩和し、唯一、門限だけが残った。午後六時を過ぎて帰宅した場合、一週間家に軟禁する。以前はただ私を縛るだけのルールだったが、母が言うには、
「私達はきっと、貴方のことをまだ何も知らないの。もう十何年も一緒にいるのに、名前もこの両手で足りるくらいしか呼んだことがない。おかしいよね。だから、出来る限り月と一緒にいたい。本当の家族になりたいの」
ということらしい。
確かに私達は「家族」ではなかった。研究者と実験台のような、殺伐とした関係だった。血縁関係があるから家族なのではなく、お互いを大切に想い合っているから家族なのだろう。私達はその日、初めて「家族」になった。遅すぎるスタートだったが、太陽がいなければ始まってすらいなかった。彼女がいてくれて、本当によかった。そして、全てが円満に解決した。
と思っていたのは、私だけだった。
太陽は、私が何の相談もせず海の底へ沈もうとしたことを、ひどく怒っていた。どうしてそこまで苦しんでいたのに話をしてくれなかったのか、頼ってくれなかったのか。そういった不満が溜まっていき、どうしたら私に伝わるかを考えた。そして出した答えが、「自殺未遂」だった。私に同じ気持ちを味わわせることで、その時の太陽の思いを理解してもらい、もう二度としないと誓わせたかったらしい。タイミングを図って、私が海に飛び込んだ二か月後、彼女は屋上から飛び降りた。
「……ううん、まだだよ。まだわかってない」
あの日と───彼女が飛び降りた理由を話した日と同じトーンで、彼女は言った。先程よりも雨音は大きくなっている。
「十分わかったよ。どれほど不安だったか、どれほど怖かったか、どれほど」
「そんなわけない!」
床を叩くと同時に彼女は叫んだ。あまりの大きさに肩が跳ねる。
「月にはわからないよ! 私の恐怖も! 不安も! 怒りも! 悲しみも! 前触れもなく別れを突きつけられた絶望も、親友が辛いことに気づいてあげれなかった後悔も、なんとか助けることができた安堵も、全部、全部……」
わからないよ、という言葉は、窓を叩く水滴に消された。俯く彼女にそっと近づき、静かに、優しく抱き寄せる。やはり昨年は、涙にくれる人が多かったのだ。私も太陽もその一端を担っている。もしかすると、大半は私達なのかもしれない。今日だってこうやって、雫を流しているのだから。
ごめんね、と呟く。
彼女からの返事はない。
ごめんね、と呟く。
雨は止まない。
ごめんね、と呟く。
……二度と、しないでね、と聞こえた。
うん、と強く返す。
雨音は、いつの間にか姿を消していた。
******
久々に袖を通した制服は、まるで借り物のようだった。何事も「久しぶり」は馴染まないものだ。でも、慣れるまでにそう時間はかからないだろう。綺麗なままの革靴を履き、笑顔で両親に「いってきます」と告げる。笑顔で返された「いってらっしゃい」を背に、茶色の扉を開く。どうやら梅雨は明けたようで、蝉の声が近付いていた。
あのT路地に差し掛かった時、偶然見慣れた後姿を発見した。声をかけるとその人はすぐに振り返り、いつもの砕けた顔で笑った。私も、大きく笑い返した。
これから先、私はまた海に飛び込みたくなるかもしれない。隣を歩く彼女も、屋上から飛び降りたくなるかもしれない。でもその度、雨の日に交わした約束を思い出すだろう。そしてまた、懸命に生きるだろう。
水溜りを飛び越えて、私は駆け出した。
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